「連続テレビ小説おちょやん」女優の道にすべてを懸けるヒロインが、喜劇界のプリンスと結婚。昭和の激動の時代に、大家族のような劇団生活を経て、自分らしい生き方と居場所を見つけていく。大阪の喜劇の原点はココにあり!
ヒロイン・ 杉咲 花 / 作・ 八津弘幸
富田林駅下車、南口改札を出て4番乗場から「金剛バス」板持行に乗車できます。
バスで富田林駅まで戻る場合、9時以降は1時間に2本しか便がないので、徒歩で川西駅まで戻りました。川西駅までは20分程度。
- 尋常小学校の修業年を6年に延長(明治40年改正)
- 義務教育6年
- 児童を雇用して就学を妨げてはならないと規定
- 尋常小学校における授業料の徴収を原則として廃止
1965年自叙伝「水のように/浪花千栄子」私の生まれは・・よどんだどぶの泥水でした。
関テレ1965年放送
かつての西板持青年会館跡だと思われますが現在は、「富田林市消防団」西板持地区を管轄区域とする「第8分団」の車庫になっています。昔の名残でしょうか東板持は、大伴地区を管轄区域とする「第7分団」が管轄区域です。
錦部郡彼方村板持「彼方村役場(彼方34番屋敷)」明治22年開設
石川郡大伴村東板持「大伴村役場(南大伴70番地)
郷土史の研究では、明治5年西板持地区と東板持地区では寺小屋が分断されていましたが明治8年には「板茂神社内(板持尋常小学校)」で両者は連合しています。
錦部郡大字板持村「小出山城守知行所」「旧高旧領取調帳」板茂社除地無高:373坪*除地=領主により年貢免除の特権を与えられた土地
第3中学が開校してからは西板持地区も東板持地区も同じ第3中学に通学しますが小学校は、今も彼方小(西板持)と大伴小(東板持)に分断されています。
【ふーちゃんの大阪さんぽ♪】
慶長年間(1596年 - 1615年)以前は、東も西も共に1つの「板茂村(いたもむら)」(板茂連(むらじ))
新撰姓氏録では、河内の官人(役人)の3割が、渡来人(帰化人)。
「新撰姓氏録(古代氏族名鑑)815年」河内国諸蕃(渡来人)「板茂連(氏族名)・伊吉連同祖、唐人楊雍の後
西暦480年頃、百済人多数が日本に渡来
流域一帯は河内国石川郡と呼ばれた。豊沃(ほうよく)な土地がひろがっていたため、百済系の渡来人が多く住みついた。そのなかに、「ナゾの豪族」と呼ばれる蘇我一族も含まれていた、という説がある。
錦織神社 3人の尼の過酷な運命 錦部(にしごり)郡 百済郷
百済系(韓国)を中心とした渡来系の工人集団氏族は雄略朝の時代(西暦480年頃)、多数が渡来した。今来漢人(いまきのあやびと)と呼ばれた。鍛冶、馬飼、鞍造、金造などとともに、錦部という氏族もふくまれていた。
富田林から羽曳野、柏原、藤井寺と、石川沿いの丘陵地には古代、おおくの渡来人が居をかまえた。もっといえば、河内平野ぜんたいが、渡来人によって開発されたともいえる。
数年前まで「板持交番」があった場所です。この場所から100m先の佐備川沿いに移転しています。
この斜め向かいが「板持湯」と言う公衆浴場だったようです。
西板持側の「清水橋」
割烹・寿司の「魚よし」です。ランチは、1000円程度で提供されているのでお勧めです。
魚よしのとなり、昭和の時代は駄菓子屋でしたが今は墓花を販売しているようです。
高橋を渡ると東板持に入ります。橋を渡っても右側は、まだ西板持地区です。高橋を渡って正面から左側に東板持地区が広がります。
この急な坂を上ると東板持町の寿美ヶ丘住宅に入ります。寿美ヶ丘は、昭和40年頃開発された住宅地です。「警察共済組合大阪支部」が斡旋した住宅地で、代替わりしている家も多いのですが、現在も警察官や警察関係OB等が多数暮らしています。
「寿美ヶ丘」へ上がる急な坂の下のトンネルです。寿美ヶ丘住宅開発時に造られたのか開発前から存在していたのかは不明です。
河南町まで走る「309号」板持トンネル上の公園です。309号開発時には寿美ヶ丘で数軒が立ち退きしています。
309号ができる前は、寿美ヶ丘住宅から直接第三中学まで通学できました。
左にはフェンスで囲まれた「板持城跡」が見えます。
309号の開発で集会場もできました。
北寿美ヶ丘は、寿美ヶ丘で一番古く開発された住宅地で他地域同様、高齢化が進んでいます。
寿美ヶ丘開発前から鎮座していた「厳島神社 」(東板持村)です。
石川郡板持村「代官・小堀勝太郎支配」厳島社除地無高:2,120坪
2,120坪と記載があることから寿美が丘住宅全体が厳島社境内だったと考えられます。明治末期「建水分神社」に合祀され戦後復祀されたと思われます。
1947(昭和22年)米軍撮影
急な階段を登った先の境内はすべてミニサイズでうまくまとめられています。
境内にはベンチもあり、天気の良い昼間は、付近のお年寄りの憩いの場です。
「板持共同墓地」です。東板持町会墓地運営委員会が運営する墓地内に国の重要美術品に認定されている「板持十三重塔」があります。
墓地(古墳)と池があったのですが大正の時代には廃寺となっていたようです。その昔、東板持村には、数ヶ所お寺がありました。
西板持に現存する寺院
浄土真宗本願寺派:「専念寺」・融通念佛宗:「大念寺」
「南口家先祖代々の墓」も板持共同墓地内にあります。在りし日、「おちょやん」が何度かお墓参りに帰省しているようです。
不動産登記簿は情報の宝庫です。不動産の登記簿は誰でもその謄本を請求できます。
所有者の住所・氏名・取得原因・年月日・借り入れの際の担保権なども登記されます。
古くから古墳内にあった墓地を「板持共同墓地」として新たに開発時、墓地としての登記を失念していたようです。
寿美ヶ丘住宅等も開発時、業者の登記が大雑把で、不動産のプロが僅かな土地の未登記地面を見つけ、買取を要求してきます。
この道の先が「おちょやん」の生家です。
「おちょやん」の生家は、醤油工場(養老院)のすぐ近くにありました。
社会福祉法人「 柳生会(りゅうせいかい)」 豊中市でも特養を運営し、伊丹市では保育園を運営しているようです。(元大阪市議・ 元衆議院議員・元参議院議員:柳本一族)
職業欄には、「民生委員」となっていますが、富田林市議の京谷議員が法人の理事と評議員を兼務し、活躍しているようです。(平成28年現況報告書)
平成28年3月までは、理事と評議員の兼業は禁止されていなかったようですが、この頃、公金で運営する社福理事による法人の私物化が大きな社会問題となり、平成28年4月以降法改正され、理事と評議員の兼業は禁止されました。
最新の現況報告書(WAM NET) (29年~31年)
兼職の禁止(40条第2項)
評議員は、理事及び監事の選任・解任を通じて、理事等の業務執行を監督する立場にあるため、自らが評議員を務める法人の理事、監事又は職員を兼ねることはできません。
富田林の市会議員は、社福の役員、NPO法人役員、医療法人副理事等、副業でも活躍している方が多いようです。
HPより「1954(昭和29)年に旧厚生省より法人認可を受け、約半世紀にわたって、養護老人ホーム「柳生苑(富田林市)」を運営してまいりました。2002年(平成14年)には特別養護老人ホームユーフォリア豊中、 2010年(平成22年)には伊丹クレセール保育園を開設し、柳生苑と併せて3拠点体制になりました。」
【制作】社会福祉法人 柳生会【キャスト】:NPO法人ゲキトモエンターテイメント
「喜志小学校」「彼方 春日神社」
VariCam / EVA1 JP(Facebook Watch)「まなみ」
第二次世界大戦前後は、国民生活の極度の貧困に対して国は十分な資源を持っていなかったので、民間社会福祉事業に依存していました。
それにもかかわらず、公の支配に属さない民間社会福祉事業への公金を禁止する憲法第89条「公の財産の支出又は利用の制限」が施行されたため民間社会福祉事業は、財政的困難となりました。終戦直後の福祉事業は常に赤字運営だったと思われます。
昭和26年社会福祉事業法が制定され、行政庁が行政処分として行う「福祉」を民間社会福祉事業者に委託し「措置委託制度」と公的補助を受ける資格を備えた「公の支配に属する」社会福祉法人が創設されることとなったと考えられています。
現在、特別養護老人ホームの95%が社会福祉法人が経営しています。
東大阪市布施の学校校舎として使われていた建物を移築した牛舎(乳牛)です。この牛舎では最盛期には乳牛40頭が飼育されていました。
昭和30年代後半頃まで東板持には8軒の牛舎があったようですが、付近の宅地化が進み、乳牛飼育は臭気・糞尿処理の問題で難しくなっていき東板持の酪農家はすべて廃業しました。
乳牛は、終戦直後、南河内郡で77頭、泉北郡で111頭、岸和田市160頭。
昭和33年には、大幅に増え、大阪府の乳頭数は8.440頭です。富田林では、「南河内酪農協」生乳出荷先:森永乳業・明治乳業・泉南乳業、美原の黒山では「片岡牛乳」、美原の北余部では「農芸牛乳」ブランドで販売していました。
牛舎のすぐ近くまで民家が迫っています。
東板持のダンジリ小屋です。ダンジリ新調にあたり寄付をされた方の氏名がわかります。
板持には、柳本姓、石田姓、辻姓、仲野姓、などが多いようです。
南河内のだんじり文化 岸和田のように走ってるだけで何が楽しいの?
「岸和田は休憩した後にゴミが一つも落ちていないことや,お茶を飲むにしても上の人の許可がないと飲まないほど上下関係が厳しいと聞くが,南河内はそれとはほとんど逆である。」
岸和田や鳳のだんじり祭りを見学に行った時、ダンジリの後ろから付いて走っている
数十人の若いママ達がゴミ袋を片手にダンジリを追いかけてる姿をみて驚きました。
富田林は、岸和田の真似をしてほしくはないのですが、身体に響く太鼓の音、迫力と伝統の曳き唄、横しゃくり、縦しゃくり、ぶん回し、・・マイクを使わなかった数十年前の富田林ダンジリ祭をもう一度見てみたいものです。(若一は、だんじり新調後、拡声器を使わなくなったと情報をいただきました。)