「春日温泉」湧出と枯渇、そして消滅

竹内街道から春日温泉に通じる飛鳥川の「籾山(もみやま)橋」1926(大正15年)架設

地元の方から前回の訂正も含めて新たに聞き取りした情報を教えていただきました。

大正10年頃「春日温泉道」も国道166号線もまだ開通していませんでした。

大正5年頃に温泉が湧出し、地元では「のぼり」を立てお祭り騒ぎだったそうです。明治40年頃まで竹内峠には3軒の旅館と峠の茶屋、飯屋があり人の往来が激しかったようです。

「籾山(もみやま)橋」1926(大正15年)架設

温泉館跡には戦後しばらく3Mほどの煉瓦造りの円形浴槽が残っていました。

遊技場には喫茶室やビリヤード等の遊具施設があり、空き地になっている料亭には、通りに面して夕涼みのできそうな欄干があったそうです。芝居小屋の名称は不明ですが、「黒猫」という名のカウンター式の飲み屋もありました。

「旅館陽明館」は昭和18年に解体されますが、温泉道沿いの桜並木は戦後もしばらくは残っていました。『叡福寺から約六丁、磯長村大字春日竹内街道より、稍離れたる小丘の麓より湧出する、土類含有明礬緑礬泉で婦人病、腺描、慢性リウマチ又、皮膚病等に特効がある。温泉館と相對して旅館陽明館あり』

大阪府のぶどう栽培は江戸時代初め藤井寺の沢田が甲州ブドウを栽培。太子町では春日地区が昭和の初め頃、太子町で最初にぶどう栽培を始めています。