伏山新田の終焉と大規模宅地造成

1603年徳川家康が江戸幕府を開いた50年後、1615年「大坂冬の陣・夏の陣」により、豊臣家滅亡後の1656年(明暦2)365年前に錦郡村の錦郡新田(須賀)と伏山新田の開拓を代官領(江戸幕府直轄の領地)として幕府が新田請負人に開墾を命じ伏山新田村となりました。

1898年(明治31年)開業の滝谷駅は2013年(平成25年)から無人駅となっています。

駅裏の賃貸マンションは高度成長期「1972年(昭和47)」建築。建て替え予定の富田林市本庁舎(1970年)と同時期に建てられたマンションは富田林須賀地区ですがお隣の金剛駅前周辺は大阪狭山市となります。

現在は大阪狭山市東くみの木と富田林市伏山1丁目が同時進行で造成工事に入っていますが南海高野線を挟んだ2丁目・3丁目は現在まだ田畑が広がる「市街地調整区域内」です。大阪府の開発許可が下りる予定の2023年~工事に入るようです。この宅地造成工事が終わると伏山地区の田畑はすべて無くなるので、ため池が不要となり開発と同時にため池も埋め立てられ、ため池跡地は商業施設となります。

現在進行中の第一次宅地造成は伏山1丁目・東くみの木 「225戸」//●第二次宅地造成は伏山2丁目・3丁目「330戸」計555戸

2010年(平成22)開設「ハロー♪タウン金剛富田林集会所」ギリ富田林市伏山1丁目ですが道路を挟んでお向かいのお宅は大阪狭山市です。

わずが10m程度の距離しか違わないのですが富田林市民と大阪狭山市民、市民として暮らす場合どちらが人気なのでしょうか 

黄色が大阪狭山市

1丁目の伏山公園には伏山だんじり小屋があります。宮入は加太・廿山や新家と同じ「錦織神社」

伏山公園からの造成工事を望む

江戸時代、加太の新田は開墾で池尻村(大阪狭山市)に土砂が流れ込んで田畑に被害が出たと池尻村とで争いが起こったそうです(富田林市史)

錦郡村伏山は平野区「抗全神社」から松原・美原、伏山1丁目、須賀3丁目を抜け、河内長野の西高野街道との分岐までの「中高野街道」沿い。明治に入ると錦織村⇒錦部村

浄土宗「安楽寺」代表ー高野照道氏 お隣には「伏山水利組合」

ディサービスを運営していた施設は廃業し現在は民家となっています。

≪難病と共に明るく生きるために≫吹田難病連絡会講演1996年(平成8年)

私は大阪府の保健所に30年間勤務をしまして、退職して18年になります。退職したときから(55歳)還暦後(61歳)は、ボランティアとして自分の好きな道を自由に歩みたいと、こんな夢を描いておりました、長年続けた看護の技術を生かしして少して少しでもお役に立ち、そして少しでも社会にお返しが出来たらいいという考えでおりました。そして私の父が80歳でなくなって、その時に約150坪の土地を私のために残してくれましたので、そこに、お年寄りの家を建てたいと思っていました。しかし、この地域は(富田林市伏山)は市街化調整区域で農地以外に転用できない土地だったわけです。しかし、例外というものがあると聞いて、それから3年間、大阪府の方へ、いろんな方を通じてあらゆる働きかけをして、建築の許可を頂けるようにしましたが行政の壁はどういうのか厚く頑として動かなかったのです。例外というのは、駅とか、学校とか、医療機関とか、老人ホームとかで、これらは認められていることらしくて、私の方も法人組織にすれば厄介なことで経営面も大変になりますから、どうしても当初の考え通り、我が家として無料で開放したいと思っておりました。

そして、ついにそれが建てられなくなったものですから断念をしまして、そこから少し離れている我が家を壊してそこに現在のディサービスの施設的なものをつくりました。そこでありがたいことには建設に携わって下さった大工さんがお年寄りの家が建つのだとボランティア精神で、4ケ月で見事に完成さしてくれました。

また、私の退職金はこれだけしかありませんと言ってありました、その範囲内で1990年(平成2年)の4月7日に「赤鬼園」として、近所のお年寄りや、ボランティアさんの方30数名が集まって第1回のディサービスがスタート致しました。

天野山が源流の「西除川」

ヒメボタルを保護しているようですが伏山・東茱萸木の大規模宅地造成で生態系に変化が起こり造成後は東茱萸木の西除川ホタルも絶滅すると思われます。次回記事のタイトル「西除川源流を求めて・」天野山の西除川上流にも小魚が生息し、金剛寺先の天野山にもホタルの保護区がありました。西除川の前に「石川の源流」も探しに行きましたが遭難して死にかけ、二度と行きたくありません。後日載せます


2023年から始まる第二期伏山造成工事「地権者56人」。工事は2年後なので田植えも普通に行われていました。


伏山地区は羽曳野丘陵⇒廿山南端の西斜面を開拓した地で昭和30年代後半、金剛団地が開発される前の廿山村には「400」を超えるため池が存在。

金剛団地開発前、伏山財産区には11のため池があり、昭和30年代、金剛団地の用地買収時、業者にそのうち3つのため池を売っています。

伏山の最盛期にはイチゴのハウス栽培と酪農が行われていました。昭和45年には乳牛:130頭、肉用牛:20頭/牛舎:10。昭和50年には乳牛:65頭//牛舎:6に減り、現在はその姿と専業農家も消滅しています。

この辺りも第二期造成工事区間ですが公園などの緑地となるようです。

「伏山台幼稚園・小学校」と「伏山神社」伏山神社は明治政府の神社合祀政策により一時期「錦織神社」に合祀されています。

この景色も3年後には見られなくなります。

伏山台の「千一夜」さん、レインボーホール(富田林市市民会館) 伏山台と市民会館で営業していた当時市民会館の食堂には2、3度お伺いしています。ご馳走様でした