廿山へ

廿山の北朝方砦から南朝方の嶽山城址付近が見渡せます。応仁の乱では嶽山城の戦いの舞台にもなりました。


明治末期の神社合祀令で廿山村の村社「熊野神社」、ご神体を錦織神社に合祀しています。

  • 廿山村「熊野神社」
  • 錦郡村「若宮神社 」
  • 錦郡新田村(須賀)「菅原神社」
  • 加太新田村「稲荷神社

長福寺は昭和の初め頃、現:菊水保育園の地から熊野神社跡地に移転。


熊野神社のご神体を錦織神社へ合祀後、その跡地に移転して来た長福寺は本堂も含め境内の建物はすべて昭和以降に建てられています。

長福寺は現:菊水保育園の地から移転していますが、社会福祉法人「菊水保育園」

理事長は建水分神社「禰宜(ねぎ)」、評議員には錦織神社の宮司が務め、菊水と言う法人名であることから楠木氏、千早赤坂村、神職とも繋がりがあるようです。


廿山村字「風呂谷上」の熊野神社境内に鎮座していた思われるお稲荷さん。昭和の初め頃、移転してきた時には、このお稲荷さんだけが残っていたそうです。狛犬の前方には鳥居も置かれていましたが台風で破損し撤去したそうです。

文政(1818~1830)


菊水保育園の目の前の宅地開発。旧地名、廿山村字「風呂谷上」お風呂の浴槽のような急斜面の谷の上に長福寺を建立しています。

宅地造成は切土と盛土で構成されますが谷が多かった廿山は金剛団地開発時も同じような工事風景でした。


富田林市ハザードマップでは錦織公園駐車場に繋がるこの付近が土砂災害危険箇所に指定されていますが風呂谷は雨で土砂が崩壊しても谷の上の民家を避け錦織公園に流れる着く地形になっています。


富田林では牛による田起しが昭和30年代まで行われていて、親戚の農家(板持)では昭和40年代後半まで農耕用牛を飼育していました。

太神宮、「安永」五軒家神社境内にも同じ年代の灯篭が置かれていました。筆跡も同じであることから同じ石材店で製作されたものだと思われます。

廿山村本村の牛滝さん


「廿山村出郷(でごう)五軒家」

五軒(岩根家・尾崎家・小山家・上尾家・置田家)が村を出る

五軒家神社から少し下ったところに同じような牛滝さんの記念碑が置かれていました。


「河内国郷帳」:天保5年(1834)天保郷帳

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錦郡村字「宮山」(須賀)には「菅原神社」が山の上に鎮座していました。旗本領・狭山藩(3村)○錦郡村、○錦郡新田、○廿山村 「旧高旧領取調帳」


須賀の錦織配水池公園

須賀台遊園地の錦織配水池近くの個人宅に鳥居がありました。


須賀地区2丁目、3丁目の小学校通学区域は「伏山小学校」となっていますが3年後伏山1丁目~3丁目の造成工事が始動し5、6年後、計画では500世帯超えが入居する予定です。そのため新規に200名近い小学生が伏山小学校へ通学するはずです。「伏山小学校」現在の生徒数は200名ちょっと

廿山村領五軒家「廿山村出郷(でごう・しゅっきょう)五軒家」(加太、青葉丘、新青葉丘)戦後の宅地開発以降は「五軒家新開地」と呼ばれていたようです。


  • 明治22年(1889)廿山村が発足、錦部郡(新家村・甲田村・廿山村・加太新田)
  • 明治32年(1899)廿山村を改称して川西村

加太の稲荷神社跡

大正2年に「稲荷神社」所有地と所有地内の材木等を売却しています。

 

稲荷社除地無高「520坪」

レンガ造りの塀周辺が廿山村字「クノ木平」の稲荷神社跡地となります。現在の地名は「久野喜(クノキ)台


加太2丁目「龍雲寺」

後北条氏の「三つ鱗」狭山藩北條


旧青葉丘小学校のクスノ木と木造校舎(昭和11年<1936>)築:富田林市立青葉丘幼稚園



青葉丘、新青葉丘の住宅地を抜けると現在は立ち入り禁止となっている富田林市立公園「金剛風土の丘」に到着します。

関電元社長の岩根氏は原子力発電マネーの森山栄治氏(元高浜町助役・元部落解放同盟福井県連合会書記長)からの金品受領・便宜供与問題で社長を辞任しています。

関西電力調査委員会報告書(平成30年9月11日)

森山氏は、昭和62年5月まで助役として、町政に関わっており、福井県の客員人権研究員、高浜町の教育委員会委員等公職に就任していた。福井県幹部も丁重に扱う一方、森山氏が県の職員を叱責することがあるなど、福井県との関係も特別な者である。

森山氏は、些細なことでも急に怒り出し、長時間に渡って叱責・激昂することが多々あるなど、感情の起伏が大きく対応が非常に難しい人物であるが対応者は、森山氏をできる限り丁重に扱い、機嫌を損なうことなく、良好な関係を構築・維持する必要がある。

「なぜ、わしの志であるギフト券を返却しようとするのか」「無礼者わしを軽く見るなよ」と激昂


寺ケ池(寺池台)

堺市美原区のため池水利権のように金剛の寺池台「寺ケ池」も複雑な所有権と水利権が混在していました。

寺ケ池の所在地は上流側:「富田林市寺池台4丁目」・下流側:「大阪狭山市金剛1丁目」

  • [所 有] 上流:「富田林市」・下流:「大阪狭山市財産区」
  • [水利権]大阪狭山市「寺ケ池水利組合」寺ケ池全部